野末隼の日記帳。

文を書く。って楽しい

万引家族。

貧乏に憧れていた。
こんな書き方をすると怒られる気がするが、幼少の頃、僕は本当に貧乏に憧れていた。
両親は自営業の印刷屋を営み、祖父と祖母は兼業農家を営む。元地主の先祖がいたこともあり、実家は見た目としては大きかった。全校生徒100人に満たない9割が高齢者という山村地域に生まれ、20歳過ぎたあたりで母校の小学校は廃校となった。クラスは無く、学年別に多くて数十名、少なければ数名、その人数で6年間を過ごす。僕の世代は14人だった。今も顔と名前は忘れない。今彼らがどうしているかも、なんとなくだが知っている。田舎はそれ自体は小さなコミュニティであり、生活の情報が知らず知らずにすぐ広がっていくのだ。だからか僕の実家は見た目から、あと祖父母の影響により、金持ちという認識があった。これが僕は心の底から嫌だった。「おぼっちゃん」と言われることがなにより嫌であった。その年のころから今にかけてもこの言葉はずっと苦手である。
実際確かに、バブルがはじける前の高度経済成長期、家はお金があったようだ。仕事があふれるほどあり、父親は仕事に精を出した。仕事人間だったせいか、あまり遊んだ記憶は少ないが、キャンプやレジャーに連れていってくれたことは覚えている。育児家事を行うのは全て母だったのでやはり母が好きだった。もちろん祖父母も好きだった。父親も暴力をふるったりギャンブルに走ったりお酒を飲み続けたりする人ではなく、ただただ仕事をし続ける人だった。家の横が仕事場なので、顔は毎日見た。職人肌で滑舌がかなり悪く、政治の悪口をする頑固な父親、だが心は優しくなんだかんだで困っている人をほっとけないそんな昔ながらの親だった。バブルがはじけてからは、少なからず家の様子が変わった。いくつかあった車が売ってしまったようでなくなっていった。まわりは変わらず、あの家は地主だから金持ちだ、と、よく言っているように思えた。そんなことはないのに。人は見かけや見た目で判断する。それくらい世間様は適当で勝手である。そんか家計の中、僕は大学に行かせてもらった。何不自由なく学校を小中高大と行かせてもらったのは幸せなことだ。父親の生まれた家族は貧乏だったそうだ。仕事を選べる時代ではなく、本当にやりたいことはやらず、兄から引き受けた仕事をし続けて今があると聞いた。それがなければ母とも出会っていないし、僕も生まれていない。そう思うと、これでよかったのだと、思う。きっと。
前振りが長くなったが、「万引家族」は東京のひょんとした家族の話である。かなり生活は貧乏。家族皆、万引をしながら暮らしている。もちろん仕事をしながらではあるが。毎日生活はギリギリではあるが、どこか楽しそうなのである。ビールを飲み、ギャンブルもして、レジャーも楽しむ。決して裕福ではないが、幸せに思える家族がそこにあった。
実は全員血が繋がっていないという。どこかしらつながりがある部分はあるものの、本当の家族ではない。なんとも複雑な家族である。この家族の中に、また別の家族が入り込むのだが、果たしてどの形が家族として幸せなのだろうか。子どもと大人、善悪が入り混じる中で、おそろしく日常的で現実的な家族が見えた気がした。終わったあと、胸が苦しかった。だが人生はそういうものだと思った。苦しさがあって猛烈な悲しさがあってそれらを越えたところに、心からの喜びがある。日本の家族はかなり複雑だ。感情を家族の中ですら押し殺す。それは気を使う文化そのものが日本の家族の形だからだ。絆はきっと、血が繋がってなくてもそこにある。生まれてくる子は親を選べない。毒親が貪るように増えたこの時代、もはや親が子を選ぶ時代になってきたようだ。どれだけひどい扱いをされようと、子は親に気を使うのだろう。生まれながらの平等不平等が激しい日本。それぞれ個々人が家族のあり方を考える必要がある。
貧乏だから幸せというわけではないが、富豪だから幸せでもない。結局家族のあり方、それぞれの人間で決まるのだと。きっと。